はじめに――問題はaespaでは終わらない
NHK紅白歌合戦へのaespa出場を巡る議論は、表面的には「一人の外国人アーティストによる過去のSNS投稿」が発端とされている。 しかし、この問題の本質はそこにはない。
より深刻なのは、日本原水爆被害者団体協議会(以下、被団協)がこの件について「対応しない」と明言したことである。
被団協の沈黙は、単なる不介入ではない。 結果としてそれは、原爆という人類史上最悪の兵器を象徴的に消費・演出しても許されるというメッセージを、国内外に向けて発信してしまった。
「何もしない」という判断が持つ政治性
被団協はこれまで一貫して、核兵器や核実験に対して強い姿勢を示してきた。 中国の核実験、米露の核政策、日本国内の核武装論に対しても、声明や抗議を行ってきた歴史がある。
それにもかかわらず、
- 原爆を想起させる象徴(きのこ雲)
- 国際的に影響力のある芸能人
- 日本最大級の公共娯楽番組
- 被爆者の親族が司会を務める文脈
これらの条件が揃った案件に対し、「対応しない」と判断した。
これは価値判断の放棄ではなく、「この程度の象徴消費は問題にしない」という新たな基準提示と受け取られても仕方がない。
沈黙は中立ではない。 とりわけ、被団協のような道徳的権威を持つ団体においては、沈黙そのものが強い政治的意味を帯びる。
原爆は「娯楽文脈」で消費してよいのか
今回、問題視されたのは「原爆を揶揄した意図があったかどうか」だと説明されている。 しかし、原爆の問題は意図の有無だけで測れるものではない。
原爆は、
- 国家間戦争の道具
- 軍事技術の象徴
- 政治的抑止力
である以前に、無差別大量殺戮をもたらした人道上の絶対的悲劇である。
それを「可愛い」「インテリアとして映える」「娯楽番組の一要素」として消費すること自体が、被爆者の証言が長年訴えてきた倫理と正面から衝突する。
被団協がこの点に沈黙したことで、 「原爆表現は、文脈次第で娯楽に載せても問題ない」 という誤解が国際的に生まれかねない。
BTS原爆Tシャツ問題との連続性
この判断がさらに深刻なのは、過去の事例との整合性である。
かつてBTSが原爆を想起させるTシャツを着用した件では、日本国内で強い批判が起きた。 あの問題の核心も、「意図」ではなく、原爆の象徴をファッションとして消費したことにあった。
今回、被団協が沈黙したことで、海外からは次のように見える。
「日本は、原爆表現への基準を緩めた」
「娯楽やファッションなら容認されるようになった」
これは、BTSの件を事後的に正当化・相対化する効果すら持つ。
被団協が意図せずとも、 「原爆Tシャツですら、今なら問題にされないのではないか」 という誤った前例を作ってしまったのである。
被爆者の名を使った「演出」の正当化
特に看過できないのが、紅白歌合戦の構図だ。
被爆者の親族である綾瀬はるか氏が司会を務め、 その場でaespaを紹介する。
これはNHKにとって、
- 平和
- 和解
- 問題は解決済み
という物語を視聴者に提示するための、極めて象徴的な演出である。
被団協が沈黙したことで、この演出は 「被爆者側も容認している」 という印象を世界に与えてしまう。
これは、被爆者の痛みを「安心材料」として消費する構図であり、本来最も避けるべき事態だ。
結論――沈黙は免罪ではない
被団協の今回の判断は、 aespa一組の問題を超え、
- 原爆表現の許容ライン
- 娯楽と人道倫理の境界
- 日本が世界に示してきた核被害国としての立場
これらすべてを揺るがすものである。
「何もしない」という選択は、結果として 原爆を娯楽として消費しても許される という誤ったメッセージを世界に投げかけた。
それは、被爆者が積み上げてきた道徳的正当性を、 自ら削る行為だったと言わざるを得ない。

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