NHKを巡る議論で、必ず持ち出される言葉がある。
それが「政治介入」だ。
NHKは、国会や国民からの統治・改革要求に対し、ことあるごとに「政治介入になる」「編集の独立性が損なわれる」と反論する。しかし、ここには重大な論点のすり替えがある。
問題は政治介入か否かではない。
問題は、NHKに民主主義のガバナンスが存在しているかどうかだ。
「政治介入」という言葉が隠しているもの
民主主義国家において、「政治」は国民の意思を反映する装置である。国会議員は完全ではないにせよ、選挙によって国民から選ばれ、支持を失えば職を失う。
一方、NHKの経営陣や幹部職員はどうか。
- 国民から選ばれていない
- 国民に拒否されても職を失わない
- 視聴されなくても収益が確保される
この構造の中で、NHKが言う「政治介入」とは、実質的に次の意味を持つ。
国民の意思がNHKに及ぶこと自体が不都合である
これは、公共放送の理念とは正反対の発想だ。
民主主義国家における「公共」の条件
民主主義国家で「公共」を名乗る組織が成立するためには、最低限どちらかが必要になる。
- 国民代表(政治)による統治
- 国民の選択(市場)による評価
NHKはこの両方を拒否している。
- 国会の関与 →「政治介入だ」
- 視聴者選択 →「公共性が損なわれる」
つまりNHKは、
誰にも統制されない公共機関
という、民主主義的に最も危険な存在になっている。
編集の独立性は免罪符ではない
本来、編集の独立性とは「権力による恣意的な報道支配」を防ぐための概念である。
しかしNHKはこれを、
国民からの批判や統治を拒絶する盾
として使っている。
だが、編集の独立性と説明責任は両立する。
独立性があるからといって、国民を不快にさせた理由を説明しなくてよいわけではない。
説明責任を放棄した独立性は、単なる独善である。
NHKが最も恐れているもの
NHKが本当に恐れているのは、政治でも世論でもない。
それは――
「選ばれない」という現実だ。
スクランブル放送化されれば、
- 見たい人だけが金を払う
- 面白くなければ契約されない
- 不快なら視聴されない
これは制裁ではない。
市場を通じた民主主義である。
NHKがスクランブル放送化を全力で拒否するのは、自らの「公共性」に自信がないからに他ならない。
統治を拒否するなら公共を名乗るな
もしNHKが、
- 国会によるガバナンスを拒否し
- 国民の選択による評価も拒否する
のであれば、公共放送を名乗る資格はない。
制度によって生かされているだけの組織が、「公共」という言葉を独占することは、言葉そのものを腐らせる行為だ。
結論――選択肢はすでに一つしかない
NHKに与えられた選択肢は、すでに明確である。
- 民主主義のガバナンスを受け入れる
- それが嫌ならスクランブル放送化する
これ以外の道は存在しない。
公共放送を名乗りたいなら、民主主義を引き受けるべきだ。
それができないなら、公共放送をやめるべきだ。
NHKが「政治介入」を叫び続ける限り、その言葉は
民主主義から逃げ続けるための口実としてしか響かない。
NHKの問題は番組内容ではない。
統治を拒否する構造そのものである。
この構造にメスを入れない限り、
NHKが国民から信頼される日は永遠に来ない。

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