「対応しない」という判断が投げかけた大きな疑問
日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が、韓国の女性グループaespaのメンバーによる 「原爆のきのこ雲を想起させるランプの写真のファンアプリに投稿」について 「対応することはない」と明言したことは、多くの国民に強い違和感を残した。
この違和感の正体は、単なる感情的反発ではない。 それは、被団協が長年掲げてきた「道徳的・公共的立場」と、 今回の対応との間に生じた明確な論理的不整合にある。
憲法9条を語る団体が、憲法14条を軽視していないか
被団協は、憲法9条と核廃絶を結びつけ、 「平和を体現する存在」として社会的信頼を築いてきた。 しかし、日本国憲法は9条だけで構成されているわけではない。
憲法第14条第1項には、次のように明記されている。
「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、 政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」
この条文が意味するのは、 「誰がやったか」ではなく「何をしたか」で判断される社会である。 これは法治国家の根幹であり、公共性を掲げる団体ほど厳格に守るべき原則だ。
もし日本人芸能人だったら、同じ対応だったのか
今回の件で最も多くの国民が抱いた疑問は、極めてシンプルである。
「もし同じ投稿を日本人の芸能人がしていたら、被団協は本当に何もしなかったのか」
被団協はこれまで、国内の政治発言や表現に対しては 極めて迅速かつ強い言葉で抗議を行ってきた団体として知られている。 その過去の行動と照らし合わせたとき、 今回だけが「対応しない」という判断になった理由は、 行為の内容以外に求めざるを得ない。
その結果、多くの国民が感じたのが 「外国人には寛容で、日本人には厳しいのではないか」 という二重基準への疑念である。
二重基準は「配慮」ではなく、差別と受け取られる
国際関係への配慮や文化的背景の尊重は重要である。 しかし、それが評価基準そのものを変える理由にはならない。
行為の内容が問題視されるか否かは、 発信者の国籍や立場によって左右されてはならない。 それを許した瞬間、社会的正義は主観的なものに変質する。
二重基準は「寛容」ではなく、 不公平であり、結果として差別と同義に受け取られる。 これは、まさに憲法14条1項が最も強く警戒している状態である。
信念の一貫性を失ったとき、信頼は急速に崩れる
被団協が長年得てきた支持は、 「誰に対しても同じ基準で核と向き合う」という 一貫した姿勢によって支えられてきた。
しかし今回の対応は、 その一貫性に大きな疑問符を付ける結果となった。
核兵器に対する倫理は、 国や立場によって変わってはならない。 それを曲げた瞬間、 被団協は「普遍的価値の代弁者」ではなく、 特定の文脈だけで判断する団体と見なされてしまう。
問われているのは、沈黙ではなく姿勢である
今回の問題で重要なのは、 誰かを糾弾することではない。
問われているのは、 被団協が今後も公共性を担う団体として、 同じ基準を貫く意思があるのかという点である。
もし今回の件を問題視しないのであれば、 将来、同様の事例が国内で起きた際にも、 同じく「対応しない」姿勢を貫く必要がある。
そうでなければ、 「基準は状況次第で変わる」という印象だけが残り、 結果として核廃絶という理念そのものが 国民から距離を置かれてしまうだろう。
平和を語る資格は、平等を守る姿勢と不可分である
憲法9条を守ることと、 憲法14条を守ることは、対立しない。 むしろ、その両立こそが 戦後日本社会の基盤であったはずだ。
被団協が再び国民的信頼を確かなものにするためには、 沈黙ではなく、 判断基準の透明性と一貫性が求められている。
平和を語る資格は、 法の下の平等を守る姿勢と切り離すことはできない。 その原点に立ち返ることが、 今、強く求められている。

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