NHKは長年「公共放送」を名乗ってきた。しかし、近年その言葉に強い違和感を覚える国民が増えている。
それは番組の好き嫌いの問題ではない。
NHKが“公共放送としての要件”を満たしていないのではないか、という根源的な疑問だ。
本稿では、感情論やイデオロギー論を排し、
「公共放送とは何か」という定義から出発し、
なぜNHKがその資格を失ったように見えるのかを整理する。
公共放送とは「名乗るもの」ではない
公共放送とは、本来以下の条件を同時に満たす存在である。
- 国民全体に奉仕する
- 多様な価値観・歴史観を尊重する
- 国民からの信任によって支えられている
- 強い説明責任と自己修正能力を持つ
重要なのは、公共放送は肩書きではなく、状態であるという点だ。
制度で定義されているから公共放送なのではない。
公共性を日々の行動で示し続けているから、公共放送と呼ばれるのである。
NHKの最大の問題は「選ばれない構造」
NHKが公共放送として機能しなくなった最大の理由は、
国民から選ばれなくても存続できる構造にある。
・見なくても支払わされる
・不満があっても契約解除できない
・支持率や視聴率が経営責任に直結しない
この仕組みのもとでは、
「国民にどう見られているか」は経営上の重要指標にならない。
結果として、
- 国民感情への感度が低下し
- 批判は「誤解」「理解不足」と処理され
- 改善よりも徴収の正当化が優先される
という、公共性とは逆方向の行動様式が固定化していく。
公共性が「免罪符」に変質した瞬間
本来、公共性とは厳しい制約である。
・中立性を保たねばならない
・説明責任は民間以上に重い
・批判を受ける覚悟が必要
ところがNHKでは、公共性が次第にこう使われるようになった。
- 公共だから理解しろ
- 公共だから払え
- 公共だから批判は的外れ
これは公共性ではない。
権威の自己正当化である。
公共放送を名乗りながら、
国民を「支える主体」ではなく「従う対象」として扱うなら、
その時点で公共性は失われている。
「制度がなければ成立しない」ことの意味
もしNHKが本当に公共的価値を提供しているなら、
・任意負担でも一定の支持を得られる
・制度が変わっても存在し続けられる
・国民の信頼を収益で測ることができる
はずだ。
しかしNHK自身が、
- スクランブル放送化を拒み
- 任意契約を否定し
- 制度維持に最大の力を注いでいる
これは裏を返せば、
制度がなければ価値を証明できない
という自己認識の表れでもある。
制度があるから生きている存在は、
公共放送ではなく制度依存型組織である。
公共放送と呼べない理由
以上を踏まえると、次の結論に至る。
- NHKは国民の信任で成り立っていない
- 選ばれる仕組みを拒否している
- 批判に応答する構造を持たない
- 公共性を責任ではなく権利として扱っている
この状態で「公共放送」を名乗ることは、
言葉の意味を空洞化させる行為だ。
結論
NHKが問題なのは、番組内容の一部ではない。
存在の仕方そのものである。
公共放送とは、
制度に守られる存在ではなく、
国民に支えられる存在だ。
その条件を満たさない以上、
NHKは自らを公共放送と称する資格を失っている。
この問題を直視しない限り、
NHKは国民との距離をさらに広げ続けるだろう。

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