NHKはなぜ「公共放送」ではなくなったのか――制度に寄生する巨大組織の正体

NHKは長年「公共放送」を名乗ってきた。しかし、近年その言葉に強い違和感を覚える国民が増えている。
それは番組の好き嫌いの問題ではない。
NHKが“公共放送としての要件”を満たしていないのではないか、という根源的な疑問だ。

本稿では、感情論やイデオロギー論を排し、
「公共放送とは何か」という定義から出発し、
なぜNHKがその資格を失ったように見えるのかを整理する。


目次

公共放送とは「名乗るもの」ではない

公共放送とは、本来以下の条件を同時に満たす存在である。

  1. 国民全体に奉仕する
  2. 多様な価値観・歴史観を尊重する
  3. 国民からの信任によって支えられている
  4. 強い説明責任と自己修正能力を持つ

重要なのは、公共放送は肩書きではなく、状態であるという点だ。
制度で定義されているから公共放送なのではない。
公共性を日々の行動で示し続けているから、公共放送と呼ばれるのである。


NHKの最大の問題は「選ばれない構造」

NHKが公共放送として機能しなくなった最大の理由は、
国民から選ばれなくても存続できる構造にある。

・見なくても支払わされる
・不満があっても契約解除できない
・支持率や視聴率が経営責任に直結しない

この仕組みのもとでは、
「国民にどう見られているか」は経営上の重要指標にならない。

結果として、

  • 国民感情への感度が低下し
  • 批判は「誤解」「理解不足」と処理され
  • 改善よりも徴収の正当化が優先される

という、公共性とは逆方向の行動様式が固定化していく。


公共性が「免罪符」に変質した瞬間

本来、公共性とは厳しい制約である。

・中立性を保たねばならない
・説明責任は民間以上に重い
・批判を受ける覚悟が必要

ところがNHKでは、公共性が次第にこう使われるようになった。

  • 公共だから理解しろ
  • 公共だから払え
  • 公共だから批判は的外れ

これは公共性ではない。
権威の自己正当化である。

公共放送を名乗りながら、
国民を「支える主体」ではなく「従う対象」として扱うなら、
その時点で公共性は失われている。


「制度がなければ成立しない」ことの意味

もしNHKが本当に公共的価値を提供しているなら、

・任意負担でも一定の支持を得られる
・制度が変わっても存在し続けられる
・国民の信頼を収益で測ることができる

はずだ。

しかしNHK自身が、

  • スクランブル放送化を拒み
  • 任意契約を否定し
  • 制度維持に最大の力を注いでいる

これは裏を返せば、

制度がなければ価値を証明できない

という自己認識の表れでもある。

制度があるから生きている存在は、
公共放送ではなく制度依存型組織である。


公共放送と呼べない理由

以上を踏まえると、次の結論に至る。

  • NHKは国民の信任で成り立っていない
  • 選ばれる仕組みを拒否している
  • 批判に応答する構造を持たない
  • 公共性を責任ではなく権利として扱っている

この状態で「公共放送」を名乗ることは、
言葉の意味を空洞化させる行為だ。


結論

NHKが問題なのは、番組内容の一部ではない。
存在の仕方そのものである。

公共放送とは、
制度に守られる存在ではなく、
国民に支えられる存在だ。

その条件を満たさない以上、
NHKは自らを公共放送と称する資格を失っている。

この問題を直視しない限り、
NHKは国民との距離をさらに広げ続けるだろう。


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