山上徹也被告は「統一教会に家族を壊された被害者」「政治に絶望し、一人の力で世の中を変えようとした悲劇の英雄」といった文脈で語られることが多い。しかし本当にそうだろうか。
私はそうは思わない。山上被告は、生きる力が十分あったにも関わらず、それを社会に向けて発揮することを放棄し、自分の憎悪を正当化するためにターゲットを探し回っただけの、自己中心的な強者だったと考える。
恵まれていたのに「不幸の主人公」を演じた
山上被告は、大学に進学し、自衛官にもなり、働く能力もあった。生活保護にすらアクセスできていた。つまり、最低限の社会的自立は可能だった。
にもかかわらず彼はこう言った。「自分には何もない」「絶望しかなかった」。
これは本当に弱者の言葉だろうか。
彼は“幸福な人生を送れなかったのは社会のせいだ”と結論づけ、被害者ポジションに逃げ込んだだけなのではないか。
憎む相手がほしいだけの感情暴走
山上被告は統一教会を憎んでいたと言われる。しかし、彼は教団を直接的に追い詰める行動をしただろうか。
- 内部告発をしたか? → していない
- 法律相談や政治参加は? → ほぼ無し
- 支援団体との連携は? → 無し
つまり本当に教団の被害救済をしたかったわけではない。
彼が欲しかったのは「裁かれるべき悪役」だ。
その対象として安倍元首相を設定し、暗殺という最悪の形で実行した。
統一教会を憎んだのではない。
憎むべき存在が欲しかっただけである。
「弱者救済」の仮面をかぶった自己実現
犯行後、山上被告には同情や共感が集まった。多くの人が「山上は正しい」と持ち上げる。
だが、それは一人の自己中心的な暴力が社会を動かしたという、最悪の成功体験だ。これを英雄視することは、同じ思考の暴力を再生産する危険性がある。
山上被告自身も「同じ境遇の人々のために行動した」と語るが、果たして本当か?
助けたい相手のためではなく、自分の鬱屈した感情を肯定したいがために奪った命。
その結果、被害者とその家族、そして社会を深く傷つけた。
「働く」という最も地道で重要な行動から逃げた
私たちは生活費を稼がなければ生きていけない。仕事に嫌なことがあっても耐え、黙々と働き続ける。
それは当たり前だ。
だが山上被告はその当たり前すら拒んだ。
努力せず、踏ん張らず、現実から逃げ続けた結果が暗殺だった。
その一点だけでも、彼が弱者ではなく「逃げる強者」であったことは明らかだ。
真の弱者は声をあげられない
本当に困窮している人は、武器を自作したり、犯行計画を練ったりする余裕すらない。
行動力があったからこそ、殺人という最悪の選択を取れた。
つまり山上被告は「無力な弱者」ではなく、危険なほどの行動力を持った存在だったのだ。
暴力は社会を救わない。強者の逃げ道でしかない
山上被告は、社会や家族を恨む前に、まず自分ができる努力を放棄した。
そして「悪役を殺せば、自分の人生は救われる」と思い込んだ。
それは強さでも正義でもない。
責任転嫁と逃避が生んだ自己満足の殺人である。
被害者は二度と戻らない。
社会の不信感は深まったままだ。
暴力では何も変わらない。むしろ壊すだけだ。
山上は弱者ではない。弱者の皮を被った「強者の暴走」だった。

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